Masaru’s Eye | 「離職防止」か「成長の阻害」か——英競業避止改革から考えた、日本のスタートアップ転職コスト

ロンドンのスタートアップハブ Silicon Roundabout / Old Street 地域
Photo by Stephen McKay via Wikimedia Commons(CC BY-SA 2.0)
イギリス政府は10月9日、スタートアップの採用を妨げている競業避止条項(退職した社員が競合企業で働くことや、競合する会社を立ち上げることを一定期間禁じる契約条項)を、法律で抑えると表明した。日本の読者には遠い話に聞こえるかもしれない。日本では競業避止を直接定めた法律がなく、裁判所もその有効性を厳しく見るからだ。
では、日本の社員は自由に転職できているのか。転職を止める仕組みは、競業避止だけではない。報酬の受け取りを在籍に結びつければ、辞める人は何かを失う。
2022年4月に東証グロース市場が発足してから2026年11月までに上場し(一部予定を含む)、ストックオプション(SO)を持つ246社の条件を上場申請書類で読むと、判定できた238社のうち233社、98%が「退職したらSOの権利は消える」という在籍条件を付けていた。2割の会社は、競合に移った人からSOを取り上げる条項も入れていた。辞めると株式報酬の一部を失う仕組みはアメリカにもイギリスにもある。違うのは、何を、どこまで失うかだ。
イギリスは競業避止を外しにかかった
タンパク質の立体構造を予測するAI「AlphaFold」を率い、2024年にノーベル化学賞を受けたJohn Jumper氏は、2026年6月19日、Google DeepMindを離れてAnthropicに移るとX上で明らかにした。約9年在籍した研究所からの移籍は、AI業界の人材争奪を象徴する出来事として大きく報じられた。
ところが、Jumper氏がAnthropicで働き始めるのは来年になる可能性がある。Bloombergは、DeepMindの幹部に適用される競業避止条項のために、着任が来年にずれ込む可能性があると伝えた。イギリスでは、退職予告期間中に在籍扱いのまま給与を払い、出社も他社勤務もさせないガーデニングリーブという慣行も、移籍を遅らせる手段として使われている。
AI研究の進み方を考えると、半年を超える空白は小さくない。カリフォルニア州では競業避止は原則として無効で、イギリスの創業者たちもこの違いを繰り返し引き合いに出している。イギリスでは、合理的な範囲に収まる競業避止やガーデニングリーブは有効とされる。イギリスのスタートアップ関係者が「何とかしてほしい」と声を上げた背景には、こうした事例の積み重ねがある。
9月29日、イギリスのAIスタートアップの経営者らが「Free to Start and Scale」と題する公開書簡を出した。City AMによると、署名したのはElevenLabsのMati Staniszewski氏、SynthesiaのVictor Riparbelli氏ら22人の創業者・経営者で、Index VenturesやEntrepreneurs Firstといった投資家も支持に回った。求めたのは、退職後の競業避止、長い退職予告期間、ガーデニングリーブの制限だ。Synthesiaの幹部は同紙に、エンジニアや研究者を採用するのに12カ月も待てないと語っている。
10日後の10月9日、首相のAndy Burnham氏はマンチェスターで開かれたInnovation Nation Summitで、有望なスタートアップや成長企業にとって競業避止が採用の障壁にならないよう法律を整備すると述べた。首相はこの変更を「イノベーション分野のボスマン判決」になぞらえた。ボスマン判決は、1995年にヨーロッパ司法裁判所が、契約が切れたサッカー選手は移籍金なしで他クラブに移れると判断したもので、ヨーロッパサッカーの移籍市場を一変させた。
ただし、決まったのは方向だけだ。法律事務所Gibson Dunnの解説によれば、政府は全面禁止までは約束しておらず、詳細は10月28日の秋季予算とあわせて示される見込みだという。選択肢には、競業避止の期間の上限(前政権は2023年に3カ月を提案した)、一定の給与水準以下での禁止、制限期間中の給与支払いの義務づけ、テック分野やスタートアップに限った部分禁止などが挙がっている。同事務所は、金融業界では競業避止が営業秘密を守る手段として定着しており、反対が予想されるとも指摘している。
一方、大西洋を挟んだ反対側では、逆の動きが確定している。アメリカ連邦取引委員会(FTC)は2024年にほぼ全ての競業避止を禁じる規則を可決したが、2024年8月にテキサス州の連邦地裁で無効とされ、2026年2月12日に規則そのものを連邦規則集から削除した。連邦レベルの一律禁止は消え、アメリカは州ごとのばらばらなルールに戻った。イギリスは、アメリカが手放した方向に、スタートアップを入口にして踏み出そうとしている。
イギリスの運動を率いてきた業界団体Startup CoalitionのDom Hallas氏は、首相の表明を歓迎しながら、慎重な一言を添えた。彼は、今回の表明は手続きの始まりにすぎず、ガーデニングリーブや引き抜き禁止条項の議論はこれからだと説明した。そのうえで、競業避止だけを禁じても、企業は別の契約を書いて同じように人を縛るだけで、「もぐら叩きのようなもの」だと述べている。
同じ懸念は、公開書簡そのものにも書かれていた。署名した創業者たちは、競業避止だけに手を打てば、企業は社員の退職を防ぐ別の方法に向かうと警告している。人材の流動性は、全員が縛りを外さないと誰も外さない集団行動の問題だという指摘だ。現に、首相の表明の後には、競業避止を禁じても企業はガーデニングリーブを増やすだけだという論評も出ている。
転職を止める仕組みには3つの層がある
第1の層は、法と雇用契約で「働くこと」そのものを止める仕組みだ。競業避止、ガーデニングリーブ、元同僚の引き抜き禁止がこれに当たる。違反すれば差し止めや損害賠償の対象になりうる。イギリス政府が手を付けると表明したのは、この層である。
第2の層は、報酬の受け取りを在籍に結びつける仕組みだ。辞めた時点で、まだ受け取っていない退職金や株式報酬の一部を失う。転職そのものは止めないが、転職に値段を付ける。この層は、それ自体が悪いわけではない。競業避止を原則として無効にしているカリフォルニア州でも、スタートアップの株式報酬は一定期間在籍しないと権利が確定せず、未確定の分は辞めると消える。イギリスの創業者たちが手本にしたシリコンバレーでも、株式報酬による引き留めは当たり前に使われている。問題になるのは仕組みの有無ではなく、どこまで失わせるかという程度だ。
第3の層は、その中間にある。辞めること自体は問わないが、競合に移った場合にだけ報酬を取り上げる仕組みで、行き先を条件にする点で働き方への制限に近い。日本の裁判例でも、同業他社に就職した退職者の退職金を半額にする制度について、最高裁が1977年に合理性を否定できないと判断した例がある。京都府立大学の河野尚子氏が日本労働研究雑誌に寄せた論文は、こうした退職金の減額や不支給を、競業避止義務の効果の一つとして論じている。
3つを並べると、問いの立て方が変わる。イギリスが外そうとしているのは第1の層だ。では日本では、どの層が厚いのか。そして第2の層について、日本の実務は海外と比べて重いのか。
まず第1の層から見ていこう。日本には、退職後の競業避止を正面から定めた法律がない。前出の河野氏の論文によれば、退職後の競業避止は憲法が保障する職業選択の自由を制約するため、就業規則や誓約書といった明示の根拠が必要とされ、裁判所はその有効性を厳格に審査する傾向にある。審査では、使用者の正当な利益、労働者の地位、制限する業務・期間・地域の範囲、代償措置の有無などが総合的に考慮され、合理性を欠けば公序良俗違反として無効になる。
同論文が紹介する裁判例では、地域の限定がなく期間5年で代償もない条項は無効とされた。一方で、COOとして代表者に準ずる立場にあり、通常を上回る退職金を受け取っていた人への3年間の制限は有効とされている。要するに、誰にでも一律に効くものではない。同論文によれば、2024年には政府の規制改革推進会議でも、競業避止義務の明確化が議論されている。
こうした事情を知る起業家ほど、イギリスのニュースを「日本には関係ない」と受け取るかもしれない。大企業の研究者をスタートアップが採るときも、退職時の誓約書が裁判でそのまま効くとは限らない。日本では第1の層が、もともと薄いのだ。では第2の層はどうか。日本の数字を見る前に、物差しとして、アメリカとイギリスの株式報酬で辞めた人の権利がどう扱われるかを確かめておく。
米英なら持ち出せる株が、日本では消えてしまう
アメリカのスタートアップでは、株式報酬は通常、在籍期間に応じて少しずつ権利が確定する。辞めた時点で未確定の分は消え、確定した分は持ち出せる。ただし持ち出せるのは「買う権利」なので、退職後の決められた期間内に行使価格を払って株にしなければならない。この期間は90日が標準で、Cartaによれば、自己都合か解雇かを問わず、大多数のスタートアップが辞めた社員に90日を与えている。90日の起源は税制に根拠があり、税制上の優遇を受けるSO(ISO)は、退職から3カ月以内に行使しないと優遇を失う。
90日にも批判はある。行使にはまとまった現金と、場合によっては税金が要るので、資金のない社員は確定した権利を手放さざるをえない。そのため期間を延ばす会社が出ており、Cartaのデータでは、2023年は4四半期のうち3四半期で、行使期間が90日を超えるSOが20%に達した。延長が増えるのはレイオフが多い時期で、会社にとっては発行枠に戻ってくるはずの株が戻らなくなるという負担もある。
イギリスの仕組みも似ている。スタートアップで広く使われる税制優遇型のSO(EMI)では、社員が辞めることは税制上の「失格事由」にあたり、退職から90日以内に行使すれば優遇を維持できる。イギリスの実務解説では、未確定の分は退職時に失効し、確定した分には90日などの行使期間を設けるのが典型だとされる。同じ解説によれば、辞め方で扱いを分ける規定を置くスタートアップも多い。人員整理や病気などで辞めた人は確定分を保持でき、重大な非行で解雇された人は確定分も失う、といった区別である。
要するに、米英でも辞めれば何かを失う。未確定の分は消え、確定した分も短い期限の中で現金を用意できなければ失う。イギリスの公開書簡に署名したSynthesiaの幹部も、スタートアップ社員の報酬の一部は会社の売却や上場まで現金化できない株式だと、City AMに語っている。それでも、在籍した期間に応じて確定した分は、辞めても自分のものとして持ち出せる。この点を物差しに、日本の数字を見てみることにしよう。
日本のスタートアップで、第2の層の中心にあるのはSOだろう。問題は、未上場の会社のSO条件がまとまった形ではほとんど公開されていないことだ。手がかりになるのが、日本取引所グループが新規上場会社ごとに公開している「新規上場申請のための有価証券報告書(Iの部)」である。上場直前の時点で残っている全てのSOの行使条件が載っており、スタートアップ時代に設計された条件を、会社ごとに同じ形式で読める。上場後の有価証券報告書にも同じ欄はあるが、上場前のSOは行使や失効で消えていることが多く、上場後に役員向けに出した別種のSOも混ざるので、今回の問いには向かない。
対象は、2022年4月の東京証券取引所の市場再編で発足したグロース市場に絞り、発足から2026年11月までの新規上場の全てとした。この再編でマザーズは廃止され、マザーズとJASDAQグロースの上場会社の多くがグロース市場に移った。スタートアップの主な上場先が一つの市場にまとまった時点を起点にすれば、途中で市場の定義が変わらない。Iの部が公開ページに残っているのも、ちょうど2022年以降の上場分である(2026年、2025年、2024年、2023年、2022年)。一部の会社を選ぶのではなく全数を読むことにしたのは、選んだ時点で結果が偏るのを避けるためだ。期間中のグロース市場への新規上場は265社で、このうちSOが残っている246社(92.8%)について、行使条件と、会社が権利を取り上げられる取得事由を確認した。グロース市場の上場会社は約600社なので、市場全体で見ればその4割強にあたる。
上場年 | SOのある会社 | 在籍条件あり | 在籍条件なし | 判定不能 | 競業制限あり |
|---|---|---|---|---|---|
2022年(4月以降) | 59社 | 58社 | 1社 | 0社 | 14社 |
2023年 | 63社 | 61社 | 1社 | 1社 | 10社 |
2024年 | 61社 | 58社 | 0社 | 3社 | 12社 |
2025年 | 39社 | 38社 | 0社 | 1社 | 9社 |
2026年 | 24社 | 18社 | 3社 | 3社 | 5社 |
合計 | 246社 | 233社 | 5社 | 8社 | 50社 |
判定できた238社のうち233社、98%が在籍条件を付けていた。年ごとに見ても、2022年から2025年までは98〜100%で、ほとんど動いていない。典型的な書き方は、「権利行使時においても、当社又は当社子会社の取締役、監査役、従業員、顧問、社外協力者その他これらに準じる地位を有していなければならない」というものだ。上場前に辞めれば、何年働いていても権利は消える。
米英の典型的な設計なら、在籍した期間に応じて確定した分は持ち出せるが、在籍条件の下では確定という段階を経ずに全てが消える。第2の層の中でも、重い部類の設計だと言える。行使条件ではなく、「権利者が下記いずれの身分とも喪失した場合、当社は、未行使の本件新株予約権を無償で取得することができます」と取得事由の側に書く会社もあり、一見して在籍条件とわからないこともある。
例外の作り方にも共通の型があった。在籍条件を付けた233社のうち209社、90%が「任期満了による退任、定年退職、その他正当な理由があると取締役会が認めた場合は、この限りではない」といった例外を置いている。自動的に救われるのは任期満了と定年で、自分の意思で他社に移る人がSOを持ち出せるかどうかは、取締役会の判断に委ねられている。確認した範囲で、自己都合の退職をあらかじめ例外として明記した会社はなかった。
50社、つまり20%は、SOの条項に競業制限を入れていた。この割合も年ごとに16〜24%で、大きくは変わらない。権利者が「競合する業務を営む法人を直接若しくは間接に設立し、又はその役員若しくは使用人に就任するなど、名目を問わず」競業した場合に、会社がSOを無償で取得できるという文言で、言い回しは33社でほぼ同じだった。権利行使ができなくなる事由として「当社の書面による承諾を事前に得ることなく当社の同業他社の役職員に就いた場合」を挙げる社もあった。
在籍条件がある会社では、退職した時点で権利は原則として消える。そのため、この競業制限が実際に効くのは、取締役会が例外を認めて退職者に権利を残した場面や、社外協力者に付与した場面になる。「辞めても持っていてよい。ただし競合には行かないこと」という二重の鍵である。これが第3の層である。雇用契約の競業避止が裁判所で厳しく見られる日本で、行き先を条件にした条項が、株式報酬の側に入っている。
起業家が次の発行までにできること
まず、自社のSOの発行要項と割当契約を開いて、行使条件と取得事由を読み直すことだ。今回の集計で見たように、在籍条件は行使条件ではなく取得事由の側に書かれていることも多い。そのうえで、「取締役会が正当な理由があると認めた場合」に、自己都合で辞める社員が含まれるのかどうかを、社内で答えられるようにしておく。基準がないまま個別に判断すれば、残った社員から見て公平に映らない。
次に、新しく発行するSOでは、権利確定と退職後の行使期間を組み合わせる設計を検討する余地がある。GOやティアフォーの形がその例だ。限界もある。退職者が権利を持ち続ければ発行枠は早く埋まり、上場前の行使を認めれば株主管理の手間は増える。既存のSOの条件を変えるには、株主総会の決議や権利者との合意といった手続きも要る。どこまで踏み込むかは、会社の段階と採用計画次第になる。
競業制限を入れている会社は、その範囲を確かめておきたい。「名目を問わず競業した場合」という広い文言は複数の会社でほぼ同じであり、雛形をそのまま使った可能性もある。採用の面談で退職時の扱いを説明できるかどうかは、候補者がSOをどう評価するかに直結する。逆に、他のスタートアップから人を採る側は、候補者が転職と引き換えに未確定のSOを失う可能性を、オファーの設計に織り込む必要がある。
イギリスの政府は、競業避止を抑える法律の中身を10月28日の予算とあわせて示す見込みだ。法律を変えるには、予算と協議と議会の時間がかかる。日本の転職のコストの多くは、法律ではなく発行会社自身が書いた書類の中にあり、次の発行から変えられる。どこまで外すかは各社が決めればよい。ただ、自社のSOにどんな一行が入っているかを、創業者自身が説明できる状態にはしておきたい。
執筆者|エグゼクティブ・エディター池田 将(いけだ・まさる)
1973年大阪生まれ。12歳でIT関連誌への寄稿を始め、20歳の頃からアジア各国やシリコンバレーで新興技術の取材を行う。ベンチャーキャピタルでの技術デューデリジェンス、SI-erやコンサルティングファームの共同創業、ISPインフラや日本初のモバイルウォレット開発などに携わる。
2010年代には、アジアを代表するスタートアップメディアを共同創業し、約15年間運営。現在は、経済産業省のJ-Startup推薦委員、Tokyo Startup GatewayやMASPのメンターを務めるほか、韓国・延世大学で定期的に講義を行う。
2025年からは、「SOCIA」代表、「Growthstock Pulse」を運営するCohhのCCOとして新事業に取り組む。YouTubeやオーディオブック出演、メディア執筆、国内外のカンファレンス登壇など、多方面で活動中。
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